人生事実は小説より奇なり
みなさま
こんばんは。
本日の記事は『事実は小説より奇なり』ということで、私に起こったことがおおよそ分かってきたので、それを記事にしてみたいと思います。
ただ、記事の中は『平気でうそをつく人たち』のまとめ記載とやや表現が過激な部分もあったりしますので、これより先読まれるかどうかは慎重にご判断をお願い致します。※グロではありません。
※『平気でうそをつく人たち』より引用。
われわれはみな悪と戦っている。
闘いの真っ最中には、一見して容易だと思われる解決策を手に入れたいという誘惑にも駆られる。
強い情熱に駆られているときには、悪を「ぼく滅」する過程で自分自身をも吹き飛ばそうとすらする。
しかし、「目的は手段を正当化しない」という昔ながらの問題に直面する。悪は生に対立するものであるとはいえ、悪自体もまたひとつの生のかたちである。
ならば、どうすべきか。
これはある種のニヒリスティックなむさしさにわれわれを導くものではある。
悪というものを本質的に解決不可能な問題だと見なし、手をこまねいているべきだろうか。そんなことはない。
これは意味のない考え方である。
人生が意味を持ちうるのは善と悪との戦いにおいてであり、最後には善が勝つという希望のなかにおいてである。
悪は善に敗北するのである。
われわれが漠然とながらもつねに意識していること、すなわち、悪は愛によってのみ封じ込めることができる、ということである。
悪を愛すること自体が悪ではないか。という疑念がある。
このジレンマにたいする解答はひとつのパラドックスとなる。
愛の道は、対立するものの間の動的バランスであり、安易な両極端の道ではなく、その中間にある不確実性の苦痛を伴う創造的緊張の道である。
寛容と非寛容、受容と要求、厳格性と柔軟性の両方が必要になる。
相手に対する、ほとんど神に近い共感を必要とするのである。
醜悪なものがなんらかの未知の方法で美しいものに変わるという期待だけを頼りに…。
愛が最初に果たすべき仕事は自己浄化であること。自分の敵を真に愛せるようになるまで自分自身を浄化しえたときに、美しいことが起こる。
これはあたかも、魂の境界が透明なまでに清らかなものとなり、一人の人間からその人間特有の光が輝き出るようなものである。
この光のもたらす効果はさまざまである。
邪悪なものに向かう人間の動きが、この光に出会って方向を変えることもある。
光を身に着けている人間(その人間は光の運び手にすぎない。光そのものは神の光である)は、こうした効果に自分で気づいていないことが多い。
この光を憎む者は、この光にたいして攻撃をしかけてくる。
しかし、それは、そうした邪悪な行動がこの光に取り込まれて消耗するようなものである。
これによって邪悪なエネルギーは使い果たされ、封じ込められ、中性化する。
このプロセスは光を身につけている人間に苦痛、ときには致命的な苦痛すら与えるものである。しかし、これは悪の勝利を意味するものではない。悪の自爆から生じるバックファイアのようなものである。
愛の基本原理については、この戦いを長年続けてきた一人の年老いた聖職者の言葉以上に、具体的に語る言葉を私は知らない。
この聖職者はこう語っている。
「悪に立ち向かうにはいくつもの方法があり、悪を征服するにはさまざまな方法がある。
しかし、そうした方法は、いずれも、悪を封じ込める唯一究極の道は、意志を持った生きている人間の内部で窒息させることだ、という真理の一面を示しているにすぎない。
意志を持った生きている人間のなかに、あたかもスポンジが血を吸収するように、あるいはその心臓にやりが突き刺さるように悪が吸い込まれたときに、悪は力を失い、それ以上生き続けることができなくなる」
悪の治療は、それが科学的なものであれ、ほかの形であれ個人の愛によってのみ達成しうるものである。
自ら進んで犠牲となる者が必要である。
治療にあたる人間は、自身の魂を戦場にすることを覚悟しなければならない。自らが犠牲となって悪を「吸収」しなければならないのである。
しかし、治療にあたる人間自身の魂の破滅を防ぐものは何であろうか。悪そのものを、やりのひと突きを受けるように自身の心臓に取り込むとすれば、その人間の善なる心はいかにして生き残ることができるというのであろうか。
これによって悪を打ち破ることができたとしても、それと同時に善までもが破壊されるのではなかろうか。
こうした、ある意味では無意味な相殺関係を超えて何が得られるのだろうか。
こうした問いに対して私は、神秘主義的な言葉をもって答える以外に答え方を知らない。私に言えることは、そこには犠牲者を勝利者にするある神秘的な秘術がある※①、ということだけである。
犠牲者が勝利者になるといったことが、どのようにして起こるのか私は知らない。
しかし、それが起こることだけは知っている。善良な人が自らの意志で他人の邪悪性に刺され…それによって破壊し、しかもなお、なぜか破滅せず…
ある意味では殺されもするが、それでもおな生き続け、屈服しない、ということがあることを私は知っている。
こうしたことが起こる時には、つねに、世界の力のバランスにわずかながらも変化が見られるのである。
と。
ここまで
『平気でうそをつく人たち』のまとめを引用させて頂きました。
この本を手にしてから最後のまとめまで中々進むことができませんでしたが、ようやく今日読み終わることができました。
最後まで読んでみて、おや?
と思いました。
実はこのような経験をしていたのです。
A子さんという女性との関係性が、まさにこれだったのかな?
と思うところがあるからです。
私は特に善人ではありませんでしたが、A子さんと対照的な人間ではあったと思います。そして最後に奇妙なことがおこったのです。
そうとても神秘的な…。
私の記事を最初から読んで頂いている読者様には分かってもらえるかもしれませんが、
一度、自分が『壊れる』というところまでいきました。
それからの巻き返しというか蘇生がまさに神秘的(本文中※①)なものでした。
後日談について。
A子さんと出会うまでの前の私は消えました。
それからあたらしい自分として蘇ったようなのです…。
後日談になりますが、A子さんは1ヶ月前に退社しました。
最終日は会うことを避けました。
今でもそれが一番よかったのだと思います。
これにてようやくA子さんとのことが纏められるようになりました。
『平気でうそをつく人たち』がたまたま関連していたのか、この出来事が本当のことだったのか?自分でも分からないところがあり、正直誰にも分からないと思うのです。
ですが、結果として、私には辛い出来事であり、神秘的なことが起こっているのは確かであります。
A子さんを邪悪だと記事に書いていますが、心のどこかでは『本当は邪悪ではない』と思いたいのです。
この記事は不思議体験記録として
ブログに書き留めさせて頂きます。
真意のほどは読者様のご想像にお任せ致します。
そこに『愛』はあったかどうか?著者の言葉通りなら『愛』していたのかもしれません。そして、自分を貫き、屈服しなかった。
と言えるかもしれません。
では。。。
最後に
※音量注意!!!