昨今、気づいている人は気づいていますが、自己愛人間というものが世の中には存在しています。
自己愛人間とは、自己愛性パーソナリティー障害という立派な人格障害になります。
この人格障害は先天的なものもありますが、自己愛人間から伝播して知らず知らず自己愛人間になってしまったりもします。※かつての私がそうでした。
なので、自己愛人間というものがどういったものか、また他者にどれだけ被害を与えるのかをきちんとそして真摯に考えていかなければなりません。
では、なぜ今になってこのような自己愛性パーソナリティー障害という言葉が定義され世に出てきているのか、それは社会的に見過ごせないからであり、注意喚起されているのです。
人間の多様化も宇宙の広がりとともにあり、区別・振り分けて考えていかなければならないといえるからです。とくに医者でないものが特定の人物にこういった障害というべきでないのは注意しなければなりません。
ですが、社会に溶け込み紛れ、害をなしている事実があるからこそ、こういった病名がつけられ区分けされているのが現状なのです。
自己愛人間という負の連鎖が見えないところで広がっている事実もあります。
私は自分で自己愛を予防する意味も含め、今回の記事作成に至りました。
自己愛人間を見分けると言うよりも、皆様には是非彼ら(ご自身)のその行動、言動、しぐさが適当なものなかどうなのかの判別に使ってもらえればと思います。
では。
自己愛性パーソナリティー障害を抱えた人間と同じ職場で働く人や、個人的に親しい関係にある人、あるいはその両方の環境にある人たちは、彼らの矛盾した行動や態度を目にして驚き、ひどく戸惑う…。
自己愛の欲求は『絶えず周囲の承認や称賛を求める』というかたちであらわれる。
だがその根底には、ちょっとした非難にも傷付きやすいという脆さがあり、その脆さゆえ、自己愛の問題を抱えた人間は激しい恥の意識を覚える。
彼らのような人はカリスマ的で魅力的だったかと思うと、次の瞬間には非常に冷淡で計算高く、予測のつかない怒りを爆発させたりする。
彼らは、『自己愛の脆さと防衛のサイクルにとらわれている』
自己愛人間の7つの大罪
大罪① 恥を知らない。
「回避された恥」恥を感じずにすむ独自の方法を編み出してきた。
回避した恥を否認、冷淡さ、非難、怒りのかたちであらわす。彼らの内部には、恥の感情を適切に処理する健全なメカニズムというものがない。この恥は外部に向けられ、彼らはこう言う。「僕の責任じゃないね」
恥知らずに見える彼らの態度は、冷淡な無関心さや道徳心のなさに見えてしまう。上っ面の感情しかない、無神経で、自信満々で、お高くとまった人間に見えることもあるだろう。ところが、彼らが築いた防壁を超えて恥の意識が忍び込むとき、「恥知らずな」自己愛人間の「この上なく恥に敏感な本性」が露になる。
彼らは軽視されるとひどく傷つく。そして恥の意識を追い払うために、激しい怒りを爆発させて相手を非難する。
大罪② 歪曲して、幻想を作り出す。
何がなんでも恥の意識を遠ざけようとする。だから、彼らはしょっちゅう窮地に立たされる。人生では誰でも、そう簡単には乗り越えられない屈辱的な体験に何度も直面するからだ。自分より美しく、頭がよく、成功した人間はつねに存在する。「完璧な人間などいない」という慰めは、自己愛人間の耳には届かない。
自己愛人間にとってのマジカルシンキングとは、現実を無視して、自分を特別な人間だと思い込んだり、自分が相手や周囲に大きな影響を及ぼせると考えたりすることを指す。彼らは現実を歪曲して、自分がつくり出した幻想や錯覚にしがみつく。
自己愛人間の幻想の世界は、あなたを特別な感覚で包んでくれる。彼らは魅力的で、人をうっとりさせる。その謎めいた華やかさは、あなたを自己愛の罠へと誘い込む。
そのような体験が、家族や職場の上司などの重要な対人関係で繰り返される時、あなたは破壊的な影響を受けることになる。
自分がいいように操られ、相手の思うままに動かされ、感情のローラーコースターに乗せられているように感じる。彼らの罠に誘い込まれたら最後、主導権を握るのはあなたではない。
大罪③傲慢な態度で見下す。
彼らにとっては、自分が優秀なだけではダメである。非常に優秀なだけでも、まだ十分ではない。自分が、「ほかの人よりも」優れていなければ何の価値もないのだ。自己愛人間にとって、価値は絶対的なものではない。
つねに誰かや何かと比較して、自分が相対的な尺度で勝っていなければダメなのだ。
「自分を褒めてほしい」と要求があったなら、実のところ、自分の優位性に自信が持てずに、エネルギーの補給が必要な時である。
大罪④ねたみの対象をこき下ろす。
自分が持っていないものをほかの誰かが持っているとき、優越感を保ちたいという自己愛人間の欲求は妨げられる。
「危険発生!危険発生!」警報が鳴り響く。
「制圧せよ!」恥のざわめきを黙らせるために、彼らはどんな手段を用いるのだろうか。
応えは軽蔑である。「誰それは、自分で思っているほどたいした奴じゃないね」などという。その人の実像はまったく関係ない。
自己愛人間の軽蔑は、現実には何の根拠もない歪曲である。
自己愛人間は、相手の欠点をいろいろあげつらう。無意識のうちに相手をおとしめて、自分の優位な立場を回復させるためである。
自分の中の侮辱の感情を気づいたとしても(そして、それは必ず正当化される)、彼らは断固としてねたみの感情を否認する。
妬みをを認めれば、自分が相手より劣っていると認めることになる。
自己愛人間は、自分のねたみの感情にも、優越感を持ちたいという欲求にも気づかない。彼らが感じるのは、ただ独善的な蔑みかもしれない。そしてそれは、またの名を憎悪ともいう。
大罪⑤特別扱いを求める。
彼らにとって「重要なのは自分の気持ちと欲求だけ」であり、「何でも自分の思い通りになって当然」なのだ。
相互関係や助け合いという発想は、彼らにはない。
周囲は「ただ自分に同意し、自分に従い、自分を褒めちぎり、自分を慰めるために存在する。」からだ。
周囲の存在価値とは、自分のあらゆる要求を先回りして読み取り、それを満たすことにある。私の要求に応えられないのなら、あなたに価値はない。わたしの意向に逆らうのなら、わたしの怒りを覚悟しないさい。というわけだ。
自己愛人間は、特権意識を振りかざす、1・2歳児の幻想の世界に生きているのだ。
大罪⑥他者を平気で利用する。
共感能力が低い。
共感するためには、自分が相手とは分離した存在だという認識と、恥を含むいろいろな感情に耐えられる能力を獲得していなければならない。
恥に敏感な自己愛人間は、怒りや攻撃性を爆発させやすく、共感能力が低い。
また、相手にも気持ちがあり、独自の欲求を持っていると認識する能力さえない。情緒について言えば、彼らは1・2歳児の発達段階にとどまっているのだ。
自己愛人間にとって、相手は分離した個人ではなく、「自己の延長」でしかない。相手は自分の命令に従うために存在する。
とくに、性格は悪くないが、相手に対する思いやりはこれっぽっちもない。薄っぺらで何でも自分のことばかり。
このように利己的であり、自覚もなければ良心の呵責もないのだ。
大罪⑦相手を自分の一部とみなす。
自分と他者の区別がつかない。
親の仕事のひとつは、「こどもが分離した無力な存在であっても、その本当の姿のままで大切である」ことを、子どもが受け入れる手助けをし、情緒的に傷つきやすい発達段階にある我が子の不安や苦痛を和らげてやることである。
自分は重要で強大な力を持っていると、子どもが感じるままにしておけば、「大きな力を持つ親をコントロールすることで自分の力も得られる」という幼児的な幻想に、いつまでもしがみつき、自分の本当の力を認識できなくなってします。
そうなると、彼らは周囲に目を走らせて、自分に足りないものや必要なものを与えてくれる相手を、ずばやく探し出す能力を磨く。それは、生き残りをかけた必死の試みである。そして、その役に立つ相手を、母親の時と同様に自己の延長とみなして、自分と一体の存在として扱う。
自己愛人間に対する戦略。
・自分を知る。
・自己愛人間のメカニズムを知る。
・現実を受け入れる。
・境界を設定する。
・相互関係を築く。
自己愛はどこにでもいる
あなたが、自分を知り、自分自身の弱点を認めて、彼らの幻想や歪曲を見破り、利己的に利用しようとする相手から勇気をもって身を守れば、人生を変えられる。健全な友達や恋人を選び、相互関係を築いていくことがその第一歩なのだ。
※参考記事
となります。
いかがでしたか?
まとめ
明日から、会社だ。
嫌だな~嫌だな~って思っていたら自己愛というキーワードが…。
ひょっとしたら人間関係のどこかに自己愛人間が潜んでいるかもしれません。
また、自分がこのような症状に陥っていない?
参考にして頂ければ幸いです。
もし近くにこのような方がいらっしゃったら上記のようにやってみてください。
本物の自己愛人間には良心というものがないはずです。
あらためて良心とは?
ということを考えさせられました。
良心を持っている人たちは彼らに同情や屈服することなく、自分は自分のありのままで過ごせる環境を作っていきましょう!
そして、彼らと遭遇したら適正な関係性を築いていってくださいね。
※くれぐれも自己の判断で自己愛人間と決めつけて周囲に漏らさないで下さいね。もしかして?と思っても自分の中でそっと境界を作って距離をおいてみてくださいね。
では。
長々と読んで頂き、ありがとうございました。