森羅万象をゆく。

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悟りとは。十牛図(前半)

十牛図は、中国の宋の時代の禅の入門書です。

 絵には、それぞれ漢文の「序(じょ)」と漢詩の「頌(じゅ)」がつけられ、禅の考えや絵の説明が書かれています。漢詩(頌)は廓庵師遠(かくあんしおん)禅師が作り、序は弟子の慈遠(じおん)禅師がのちに付けました。「十牛図」の絵はさまざまな種類のものがあります。

 

十牛図」は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表します。

 

①尋牛(牛を探す。)

 

天理大学付属天理図書館

 

 

 「十牛図」には、一頭の牛が登場します。牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、あばれると非常に強く、手がつけられなくなります。その姿はまるで、人間の心の様子に似ています。

 自分の牛を探し求める、つまり自分の本当の心を探すところから、物語は始まります。

 

                ― 序 ―

 はじめから失っていないものを、どうして探し求める必要があるのだろうか。

 せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。

 自分にないものを探せば探すほど、自分が本来果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷いこんでいく。

 炎が燃えさかるように損得で物事を考え、刀の穂先が次から次にわき起こるように善悪で物事を判断しようとするから、自分を見失い、大切なものに気づかなくなるのだ。

 


              ― 頌(じゅ) ―

 あてもなく、草むらを分け入って探し求めていく。

 湖は広く、山は遠くに見え、道はますます果てしない。

 力は尽き、精神も疲れるまで探しているのに、何の手がかりもない。

 聞こえてくるのは、カエデの木にとまる、夏の終わりのセミの鳴き声ばかりである。

 

禅ではよく「自分を見つめなさい」といわれます。第1図「尋牛(じんぎゅう)」には、牛(自分)を探しはじめた人の様子が描かれています。

 では、「自分で自分を探す」とはどういうことでしょうか。それは、自分のことをよく知ることです。自分のことを知ることで、自分にとっての幸せとは何か、考えられるのです。大切なものが分かれば、生きることに目標を持つことができ、迷いがなくなります。

 しかし、この「自分にとっての大切なもの」に気づくことが難しいのです。病気になってはじめて健康の大切さを知るように、あたりまえの幸せには、なかなか気づけません。他人と比べて、自分に足りないものばかりを見てしまいます。さらに、知識や経験が増えてくると、自分が一体どうしたいのか、分からなくなってしまうでしょう。

 自分にとっての幸せは、本人にしか分かりません。だれも自分の代わりに「大切なもの」を探してはくれないのです。そして、それを見つけることは簡単なことではありません。しかし、まず探しはじめたことに意味があるのではないでしょうか。

 

 

②見跡(牛の足跡を見つける。)

 

 

前回は、第1図「尋牛(じんぎゅう)」を見ました。ふと、ある人が牛(自分)を探しはじめました。それは、「自分にとっての幸せとは何か」を探す旅です。

 そして、今回の第2図「見跡(けんせき)」では、牛の足あとを見つけたところが描かれています。「足あと」ですから、まだ牛そのものではありません。ようやく自分を知る手がかりをつかんだ、というところです。

 さて、仏教では、一点のくもりもない月のことを「さとりの心」にたとえ、それを指し示す指を「お経や言行録」にたとえます。言行録とは、名僧といわれる人々の言葉や行いを記録したものです。

 指をいくら見つめても、月は分かりません。同じように、お経の意味を知るだけでは十分ではないのです。あくまでも、お経や言行録は「自分を知るきっかけ」で、自分そのものではありません。道に迷ったときの参考にはなりますが、目標にはなりません。大切なのは、自分の月(目標)を見失わないことなのです。

 

                 ― 序 ―

 お経によって仏法の意味を理解し、教えを学んでようやく牛の足あと(自分を知る手がかり)に気づいた。

 お経を読むと、どんな形の器でも、もともと同じ金属でできているように、あらゆるものの存在が自分とつながっている、ということが分かる。でもそれは、お経に書かれてあることを理解できたというにすぎない。

 何が「正しく」て、何が「間違い」なのか、はっきりとわきまえることもできないのに、お経に書かれていることを鵜呑(うの)みにして、本物と偽物をどうして見分けることができるだろうか。

 自分の頭で考えていないこの段階では、まだ禅の門に入っていない。(牛そのものを見つけていない。)とりあえず、「足あとを見つけた」ということである。

 


 歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこで、お経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。

 でもそれは意味のないことではありません。他人の牛でも、牛は本当に実在することは分かったからです。足あとをたどれば、自分の牛は見つかることでしょう。


               ― 頌(じゅ) ―

 じつは、今まで歩いてきた湖のほとりや林の中の、いたるところに牛の足あとはあった。

 道ばたには、牛の食べるよい香りのする草(お経や言行録)がたくさん生えているのを見ることができる。

 たとえ疲れきって、方角も分からない深い山の、さらに奥深いところにいるとしても、

 天に届くほどの牛の鼻は、隠すことはできない。

 

 

③見牛(牛を見つける。)

 

第1図「尋牛(じんぎゅう)」で牛を探していた旅人は、第2図「見跡(けんせき)」で牛の足あとを見つけました。そして、この第3図「見牛(けんぎゅう)」にいたり、ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。

 向かいあう旅人と牛。そこには、まだ少しの距離があります。つかまえようとすれば、牛は逃げてしまうかもしれません。

 牛は、「こうなりたい」という自分自身の姿です。お経の教えや他人の人生を参考にしながら十分考えた、自分だけの目標です。

 目標があれば、そのためにするべきことが何なのか、自然に分かるようになります。そして、その目標に近づくために必要なものは、自分の本来持っている感覚や日々の行いなど、決して特別なものではない、というのが「十牛図」の教えです。

 さて、目標を追いかけてきた自分は、やがて目標によって成長していきます。こうなれば、もはや自分と牛(目標)とは別のものではありません。

 

                 ― 序 ―

 牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。

 自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。

 だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。

 まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。

 


 旅人は、何の手がかりもないところから、お経などの言葉によって足あとを見つけ、ついに鳴き声によって牛の姿を見つけました。

 しかし、この鳴き声も、旅人がほかの事に気をとられて注意していなければ、聞こえなかったでしょう。

 牛の鳴き声に気づくきっかけは、人によって違います。足あとだったり、においだったり、ひょっとして偶然かもしれません。でも、いずれにせよ、どんなに小さな鳴き声でも聞きのがすまいと思っていたからこそ、聞くことができたのです。


                ― 頌(じゅ) ―

 うぐいすが枝の上で鳴いている。

 春の日は暖かく、風はなごやかに吹き、川岸の柳は青々としている。

 そんな光景のなか、見るもの聞くもの、すべてが牛になってしまった。こうなっては、どこにもこの牛から逃げられる場所はない。

 さて、その牛の頭には美しい角がある。その角を、どんなに上手に描いてみても、本物の美しさには、かなわない。

 

 

 

④得牛(牛をつかまえる。)

これを読んでくださっている人の中には、何か新しいことを始めてみようとしている方もいらっしゃると思います。どんなことでも、最初のうちは身につくまでに時間がかかるものですが、続けていけば、いつの間にかできるようになっていきます。

 今までできなかったことが、当たり前のようにできるようになるためには、多くの迷いや悩みを自分なりに解決しなければなりません。でも、その道のりで得たものは、本当に「身についたもの」になると思います。

 さて、十牛図の第4図「得牛(とくぎゅう)」を見てみましょう。「十牛図」といいながら、牛の全身が描かれているのは、今回が初めてです。

 旅人は、牛を探し、足あとを見つけ、牛の姿を見ることができました。牛は自分の心です。

 旅人は、牛に縄をかけてつかまえました。でも安心はできません。油断をすれば、牛に引っ張られてケガをするし、見失ったり、道に迷ってしまいます。

 旅人が牛(自分の心)をおとなしくできるのか、それとも牛に引きずられてしまうのか。お互いを結ぶものは、一本の縄だけです。

 

                 ― 序 ―

 その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。

 しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。

 やっとの思いで牛をつかまえてはみたものの、その心はかたくなで勇猛であり、いまだ野性のままである。

 この牛を飼いならそうと思うのなら、ムチを使って、いましめなければならない。

 


 坐禅をしたことのある人は、静かな場所ですわっていると、いろんなことが次々と思い浮かんできて、とても集中できない経験をしたことと思います。十牛図では、あばれる牛にたとえられています。

 坐禅にかぎらず、何かを身につけたいと思うなら、まずは、なれることが大切です。はじめのうちはできなくても、何度もやってみるうちにできるようになるかもしれません。「いつかはできるようになる」と思いこめば、続けていくことができるでしょう。

 自分が成長したことは、自分が一番気づきにくいのです。


                ― 頌(じゅ) ―

 精神をさらにつくして、自分の牛をつかまえた。

 しかし、この牛は野性の心が強く、力はさかんで、すぐにその荒々しい心や力を取りのぞくのは難しい。

 あるときは、ほんの少しの間、高原の上にいるような、目の前が開けた心境になったように思えても、

 またいつの間にか、煙のような雲につつまれて、その深いところに入りこんでいくように、自分の(牛の)心はとめどがない。

 

 

 

⑤牧牛(牛を飼いならす。)

 前回までのおさらいです。

 まず、第1図「尋牛(じんぎゅう)」では、「自分にとっての幸せや目標とは何か」を考えはじめ、第2図「見跡(けんせき)」では、その手がかりを見つけました。

 次に、第3図「見牛(けんぎゅう)」のところで、その目標がはっきりと姿を現しました。そして、目標に向けて行動を起こしていくのが第4図「得牛(とくぎゅう)」で見てきたところです。

 さて、今回は第5図「牧牛(ぼくぎゅう)」を見ていきます。牧牛とは、「牛を飼いならす」という意味です。

 牛とは、自分自身のことでした。自分にとっての幸せや、こうなりたいという目標をあらわしているのです。つまり、自分自身を飼いならすとは、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、ということです。

 図をみると、旅人は牛の先に立って歩いています。牛の色が前回まではついていましたが、色がなくなりました。一見、牛はおとなしくなったようですが、まだ綱を手ばなすことはできません。

 

                 ― 序 ―

 ふと、迷い(自分勝手なものの考え)や悩みが生まれてしまうと、そこからいろんな思いが浮かんできて、次々にあふれ出てきてしまうものだ。

 大切なのは、その迷いや悩みを自覚することで、本当の自分に気づき、ものごとの真実をつかむことができるようになることである。反対に、自分の迷いや悩みを見て見ぬふりをしていれば、いつまでたっても間違ったものの見方をしてしまうであろう。

 目で見たり、耳で聞こえたりすることを、見たまま、聞いたままに受けとめるということは難しい。ものごとがさまざまに見えるのは、自分の心をとおして、ものごとを見ているからである。

 では、せっかくつかまえた牛(自分)を逃がさないためにはどうすればいいのだろうか。それは、牛の鼻にむすんだ綱をしっかりと引いて、ためらわずに進むことだ。

 


 人は、日々の生活のなかで、さまざまなことを学びます。しかし、その学んだ知識や、つみ重ねた経験があればあるほど、自分の目指すものが本当にそれでよいのか、迷いが出てきてしまうこともあるでしょう。この迷いがあるために、「十牛図」の旅人は、まだ牛(目標)の綱をはなすことができません。

 でも、生きているかぎり、不安や悩みはついてくるものです。大切なのは、「できるか、できないか」ではなく、「そうなりたい」と思う気持ちかもしれません。


                ― 頌(じゅ) ―

 片手にムチを持ち、もう片手には手綱をにぎり、かたときも離してはならない。

 それは、牛が勝手に歩きだして、ふたたび草むらに入ったり、道に迷いこんだりしてしまいかねないからである。

 ところが、少しずつ飼いならしていくと、牛は次第におとなしくなってくる。

 こうなれば、もはや手綱でしばらなくても、牛のほうから後をついてくるようになるのである。

 

 

 

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