人生は学びですよね。
自分の目の前で起こっていることは自分自身の学びである。
ということで、今日も禅で修行ですよ!!!
さて
前回の記事になります。
怒らない「心」
⑮まず自分から始める
「他不是吾」(たこれわれにあらず)
「他人は自分ではない、人がやったのでは自分の修行にならない」
という意味になります。
自分の修行は、自分自身にしかできません。同じように変わりたいと思った時に、自分を変えられるのは、自分自身だけです。
もし、有能なコーチのようにあなたを導いてくれる人が現れ、手取り足取りアドバイスしてくれたとしても、他人に依存している限り、自らの道は見えてきません。
また、移動や引っ越しなどの環境の変化によって、あなたを悩ませていた人間関係から離れたとしても、あなた自身が変わらなければ、また同じような状況を生み出すでしょう。
禅では、作務を「人が人であるための基本行為」と位置づけています。禅僧は、掃除や炊事、庭仕事などを「片づけなければならない義務」だとは捉えません。
たとえ面倒な仕事であっても心を込めて行えば、必ずそこに清々しさが残り、真剣に取り組んだ分だけ仕事の結果が残ります。そして、自分の成長が感じられます。
⑯完璧を求めない
生きている限り、すべてが思い通りに進み、悩みやストレスが完璧に消えるということはありません。
また、まったく欠点のないパーフェクトな人はこの世に存在しませんし、初めから何でも完璧にできる人は一人もいません。
ところが、私たちは何かをやろうとするとき、なぜか完璧を求めてしまいます。
希望を持って自分を変えようと努力したり、相手といい関係を築こうとする姿勢を持つのはいいのですが、自分が行動したことで望む結果が得られないと、すぐに落ち込んでしまいます。
「自分には、どうせできないんだ」
「あの人が変わらないから、いつまでも苦しまなければならない」
そうやって、自分を卑下したり、相手を責めたりし始めるのです。
しかし、人間は不完全な生き物であり、日々思い通りにいかない現実の中でもがきながら生きていくもの。
今を受け入れて、淡々と前に進んで行けばいいのです。
その時に心しておかなければならないのは、結果に執着しないということです。
なぜなら人生においては、結果が出ることの方が少ないからです。
もちろん、「何が何でもいい結果を出すぞ」と決意し、懸命に努力することは大切ですし、だからこそ素晴らしい成果を残せるということもあります。
それでも、そこに辿り着くまでには時間がかかります。
また、試練もあるでしょう。
しかし、そこで「もう嫌だ」と努力をやめてしまえば、今までの状況を変えることはできません。
水が流れる場所には、おのずから渠(みぞ)ができます。初めは細々とした渠であっても、水が流れ続ければ次第に太くなり、最後には豊かな水をたたえる水路になります。
禅では、その真理を「水到渠成」(すいとうきょせい)という言葉で説いています。
変化の時を迎えるためには、結果にこだわらず無心に努力し続けることが重要なのです。
とあります。
いかがでしたか?
まとめ
この本では、怒りをまったく感じない
「聖人君子」になる方法を伝えたいのではありません。
人間ですから、喜怒哀楽があるのは当然なのです。
禅では、さまざまな感情が湧いてくるその心を、平静な状態に
整える方法を教えています。
心身共に自分自身の生活を律していくことが、心を磨くための道だと考えられています。